一日の仕事を終え、湯浴みを済ませたあと、曹丕は離れの自室へと回廊を独り歩いていた。
丁度その日は満月で、灯火が無くともはっきりと周りの風景が見渡せた。
見るとも無しに月光を受けて妖しげに光る庭の花々を眺めながら、歩を進める。
ある部屋の前を通り過ぎようとしたとき、ふと妙な違和感を覚えた。
「灯火、が・・・?」
その部屋は曹丕の第二の私室のような場所であった。
第二といえども蔵書は多く蓄えられており、しっかりとした寝台も用意されていた。
執務が立て込んだときなどには、この部屋に詰めて仕事をさばいたり、
政務の合間の読書などに利用していた。
その部屋の灯火が主は不在だというのに煌々と灯っているのだ。
「私に何の断りも無しに忍び込むとは・・・」
これから逢瀬だというのにこんなところで待ち伏せか?
思わず緩んだ口元にも気づかず、曹丕は部屋の扉を開けた。
「これは・・・」
一足踏み込んだ瞬間、甘い香りが鼻をくすぐった。
見ると、大きな机の上に乗った駕篭に大ぶりの桃が三つ盛られていた。
部屋を見渡しても人の姿はない。
「一体誰が・・・?」
ごく僅かな人物しか入室できぬ部屋だ。
曹丕の好きな果物を置いていくとしたら・・・
「まだ、此処に居たのか。今日はこっちで寝るなどという訳ではあるまいな?」
今心に思い描いた人物が声を掛けてきた絶妙さに思わず苦笑する。
「ん?この甘い香りは桃か?」
夜着に身を包んだ三成は、いつものように断りも無く部屋に入ってくると
充満する甘い果実の香りに少々柳眉を寄せながら曹丕の傍へ近寄った。
「お前が持ってきたのではないのか?」
「いや、俺ではないが・・・?」
「ほぅ・・・てっきりお前が私のために用意したのかと思ったのだが」
「当てが外れたな」
「まぁ、よい」
そう言って一つを手に取るとずしりとした重みがあり、柔らかい果肉の感触が指先に触れた。
思わず鼻先に近づけると芳醇な薫りが鼻腔をくすぐった。
「これは極上品だな」
「食べるつもりか・・・?」
「無論」
「誰が置いていったかも分からぬものを食べるのはよせ」
「この部屋に入ることの出来る者は限られている。悪意は無かろう」
「しかしだな・・・」
曹丕が持っていた桃を三成に差し出した。
「何だ?」
「言わねば判らぬか?」
「この・・・」
全く、世話の焼ける!俺はどうなっても知らんからな!
三成はそう文句を言いつつも、結局は桃を受け取り、椅子にドカッと腰掛けた。
曹丕もその隣の椅子に腰掛ける。
三成は懐刀に仕込んである小刀を取り出すと、桃の実に当てた。
スッと刀身がその実の中に吸い込まれて消えると、途端に甘い香りが満ちあふれた。
三成は器用に桃を切り分け、皿の上に並べていく。
「その手際、惚れ惚れするな」
「こんな事で褒められても何も出んぞ。大体お前が何も出来ないだけだ」
「出来ない訳ではない。やらなくても良いのだ、私は」
「・・・・・・開き直ったな。・・・よし、出来たぞ」
曹丕は嬉しそうな笑顔を湛えて一切れに手を伸ばした。
熟れている所為かするりと簡単に皮が剥けて白い実が表れる。
曹丕は思いきりよくその実にかぶりついた。
「んっ・・・」
途端に果汁が滴り、曹丕の顎や手を伝っていく。
部屋の空気が更に甘くなる。
「・・・美味い」
ごくりと果実を嚥下すると曹丕が溜息混じりで囁いた。
「そうか」
「お前も一口食うか?」
曹丕が三成の口元に近づけると
「俺はいい。何かあったら困るからな」
「ふっ・・・用心深いな」
「当たり前だ」
「しかし、大体お前が毒味をする立場だろうに」
「あいにく俺はお前の家来ではないのでな!」
「そう、怒るな。今のところ、毒も入っておらぬようだ」
「即効性ではないのかもしれぬぞ?」
意地悪く言うと、さもありなん、と曹丕は笑ってまた皿に手を伸ばした。
そうして八割り方食べ終わった頃、不意に扉が開いて見慣れた顔がひょいっと現れた。
「あれ~?曹丕さん、その桃、食べちゃった?」
断りもせず、すっと部屋に入ってきたのは・・・
「妲己!貴様か!この桃は・・・!」
すかさず三成が起ち上がる。
「そうよ~。あとで取りに来ようと思って、ちょ~っと置かせてもらってたんだけど」
そう言って笑うが、瞳は笑っていない。
「曹丕!もう食べるな!何か体に異変はないか?」
「いや・・・別にこれといって無いが・・・」
「あ~、即効性はないかもね~」
「何だと・・・?やはり普通の桃ではなかったのだな?!」
三成が血相を変えて妲己に詰め寄る。
「三成さん、怖~い。大丈夫よ、毒なんか入ってないから。」
「しかし今即効性はないと・・・」
「これは仙界の桃なの」
「仙界・・・?」
訝しげな顔を見せる三成とは正反対に、妲己は面白そうに瞳をくるくると瞬かせて続けた。
「私たち仙界の住人が疲れたときに食べると、一口で元気回復するのよ~、凄いでしょ?」
「一口で・・・?」
「そう、一口で」
妲己の唇が綺麗な半月を描いた。
「あれ?曹丕さん、殆ど食べちゃってるじゃない」
「まさか、食べ過ぎるとまずいのか・・・?」
「ん~・・・そうねぇ~。別に悪いことはないわよ」
「そうか!それならば・・・」
「でも面白いことにはなるかもね~」
安堵しかけた三成の言葉を遮って、妲己がさも嬉しそうに笑顔を見せた。
「なに・・・?どういうことだ・・・?」
三成が妲己に詰め寄ろうとしたその時、
「ぅっ・・・」
今まで文句も言わず黙っていた曹丕が小さく呻いた。
「曹丕?!どうした?!」
慌てて三成が駆け寄って肩に触れようとする。
「触るなっ!」
曹丕が珍しく大声を出した。
「曹丕・・・?」
引っ込みが突かない手を宙に浮かせたまま、三成が訝しげに曹丕の様子を確認する。

曹丕は机に半ば体を預け、必死に何かを堪えているようだった。
その顔色は赤く染まり、吐く息も荒い。
「あ、効いてきちゃった?」
その曹丕の様子を見て妲己がますます嬉しそうな笑顔を見せる。
「おい!妲己!どういうことだ?!」
詰め寄ろうとする三成をすり抜け、妲己が曹丕に近づく。
「うふふ・・・曹丕さ~ん、大丈夫~?」
「寄るな・・・っ!」
「体、熱いんでしょ?」
ニッコリ笑うと触れるのではないかと思うくらいの距離に顔を近づける。
「っ・・・!」
吐息が顔を撫でた瞬間、曹丕の体に震えが走った。
「曹丕さん、可愛い~!」
「やめろっ!触れるなと・・・っ!」
尚も触れようとする妲己の手を曹丕が払い退ける。
「いった~い!曹丕さん、ひど~い!」
「おい!だからこれはどうなっているのだ、妲己!!!」
蚊帳の外に置かれた三成が怒声を張り上げた。
「三成さん、そんな大声出さなくても聞こえてるから」
「だから、どうなって・・・」
「ただの桃の食べ過ぎよ」
しれっとした顔で妲己が答える。
「食べ過ぎ・・・?」
「そ、食べ過ぎ」
「食べ過ぎたら、どうなるのだ?」
「私たちが一口で元気になるような桃よ?
それを人間の曹丕さんが殆ど一個食べちゃったんだもの。
元気になりすぎちゃっても仕方無いわよね~?」
ニンマリと妲己は笑い、俯いて震えている曹丕を見やった。
「それは・・・まさか・・・?」
曹丕の様子と妲己の言葉から全てを察した三成が息を飲む。
「曹丕さん、堪えられるかな~?今日はあの美人な奥方も居ないようだけど。
あ、でも曹丕さんなら相手に苦労はしないわよね~?」
からからと妲己が笑う。
「貴様っ!!今すぐどうにかしろ!!」
三成が妲己の手首を掴み上げた。
「ちょっと!三成さん、痛い!」
「どうにかせねばもっと締め上げるぞ?」
「無理よ!だってもう体に染みこんでるし、元々毒じゃないんだもの」
苦しげに妲己がそこまで発したとき・・・
------------------ガタッ
曹丕が腰掛けていた机が大きな音を立てた。
「曹丕!大丈夫か!?」
慌てて三成が駆け寄る。
「三成・・・私に、触れるなっ・・・!」
そう呟いた曹丕の様子は言葉とは裏腹にとんでもない色気を放っており、
思わず三成は息を飲んだ。
「大丈夫よ~。一晩もすれば抜けるから。残念だけど」
解放された妲己が憎まれ口を叩く。
「一晩?嘘ではないな?」
「嘘付いてなんの得があるのよ。まぁ、せいぜい頑張ってね、曹丕さん。
そんな曹丕さんが見られて今日はとっても得しちゃった気分だわ~」
そう言うと妲己は残りの桃を持って、踊るように部屋から出て行った。